文章 | Writing
小説やエッセイなどを書いています。
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作文『待っていてね、中国』(パンダ杯 佳作受賞)
(Panda杯全日本青年作文コンクール2020にて、佳作に選ばれました)
私には、中国の大学教授の友達が三人いる。
教授たちと出会ったのは2019年の春だった。私は当時、海外大学生の日本でのインターンシップや就労をサポートする企業で働いていた。日本でインターン中の学生の様子を見学したいと、中国のある大学から依頼があり、その同行を私が担当することになった。学生がインターンを行っているのは沖縄のホテルと北海道の観光施設の2か所。沖縄から北海道まで、教授三人をお連れして移動する全5日間のスケジュールだ。
同行を命じられた時の私の気持ちは、「ああ面倒くさいな〜。初対面の中国人と五日間もずっと一緒か。しかも大学教授!しかも三人も!!息が詰まりそう。」という、大変後ろ向きなものだった。
憂鬱な気持ちで那覇国際空港の到着ゲートに立つ私の前に現れたのは、私と同年代の、若々しい恰好をした三人組。日本語学科の教授なので驚くほど流暢な日本語で気さくに私に挨拶をしてくれた。「本当に大学教授ですか?」とつい疑いたくなるような、まるで学生のような風貌と物腰の三人の登場に、身構えていた私は拍子抜けしてしまった。
移動中や食事をご一緒する間、教授たちとたくさんお話した。教授が日本に興味を持つきっかけとなった日本の小説や映画、アニメの話から、大学や中国全土での日本語教育の現状など、どれも興味深いお話ばかりだった。博識な教授たちの前で、沖縄と北海道出身の偉人を尋ねられても、BEGINとドリカムくらいしか頭に浮かばない自分が情けなくなってしまった。
三日目に沖縄から北海道へ移動した頃には、教授たちとの距離もかなり縮まっていた。雄大な景色の
中を移動する車内で、後部座席の教授が中国語の歌を口ずさんでおり、馴染みのないメロディーと中国語の響きが耳に心地よく、車内はリラックスした心地よい空気に包まれていた。出発前の私の憂鬱は杞憂となって北海道の青い空に飛んでいくようだった。
五日間の行程を終えた私たちは、惜しみながらも別れの挨拶をし、再開を約束した。「友達だから敬語はやめましょう」という教授のお言葉に甘えて、すぐに「え?いいの?」と態度を豹変させる失礼な私に対して、その後も優しい気遣いの連絡を頻繁にくださり、半年後に私は旅行で中国を訪れ、約束通り教授たちとの再会を果たしたのだった。
私は同年の秋に日本語教育の道に進むため、会社を退職した。もちろんそれは教授たちに大きな影響を受けた上での決断だった。
日本でインターンシップ中の学生と教授たちが話す姿は、親子のようでもあり、友人のようでもあり、それでいて学生から教授への尊敬が感じられるもので、日本の大学での教授と学生の関係ではなかなか見られないものだった。
私が教授たちに「日本語を教える仕事は大変でしょう」と聞いたとき、教授たちは声を揃えて「楽しいです」と即答した。どんな仕事も大変なもので仕事を純粋に楽しめる人なんていないと思っていた私にとって、それは衝撃的な回答だった。
独学で日本語教育の勉強を始め、2019年12月に日本語教育能力検定試験に合格した。すぐに教授たちに報告をすると、「是非中国で一緒に仕事がしたい」と言ってくださり、2020年の秋から中国へ渡り教授たちの大学で日本語教師としての第一歩を踏み出すことが決まった。しかし、ビザの準備を進めていていたところ、新型コロナウイルスの感染拡大により、在日本大使館・領事館の業務が停止してしまい、今はその再開を待っている状況だ。
早く教授たち、そしてまだ見ぬ学生たちに会いたい気持ちでいっぱいで、渡航が伸びてしまうのはとても歯がゆい思いではあるが、今はとにかく一日も早い新型コロナウイルスの終息を願いつつ、私自身も基本的な中国語や日本語教育について引き続き勉強している。学びは積み重ねであるため、急に教授たちのように博識にはなれないが、せめて沖縄と北海道出身の作家や政治家の名前くらいは言えるように準備をしておきたい。
短編小説『独り言』
「菊池さん何か言った?」
「いや、独り言」
営業部のデスクの島から二人の声が聞こえた。
菊池は四十代の営業マンで、新卒でこの会社に入社したと聞いているから、勤続約20年のベテランだ。その菊池に話しかけた大田は、会社のトップ営業マンで、歳は菊池より一回り若い。私が二年前に復職した直後に中途で入社しているため、社歴に至っては菊池の十分の一ほどであるが、営業成績、会社からの評価、私を含めた女性社員の評判、全てにおいて大田が菊池を大きく上回っているため、タメ口でも何故か違和感がない。
菊池の独り言は社内では有名だった。出社してから退社するまで、菊池は途切れることなく口の中でモゴモゴと言葉を転がしているようで、それが頻繁に声になってこぼれ落ちる。菊池の独り言は「くそ…ふざけんなよ…」とか「うんこみてえなこと言いやがって…」とか、とにかく品が無い。それが周囲が菊池に対して距離を置く原因の一つになっており、特に若い女性社員はあからさまに嫌な顔をして菊池を避けている。営業補助として働く私も、営業マンたちとの関わりも多く、入社当初はいちいち菊池の声に振り返り、それが独り言だと理解しては言い様のない不快感を募らせていたのだが、今では日常の雑音として聞き流す術を身につけた。それでも菊池の声が自分に掛けられたものなのか、ただの独り言なのか、判断が付かないことがたまにある。
「あームカつくな…ぶん殴るぞまじで…」
また、得意先から無理な依頼でも入ったのだろう。今日の独り言はいつもにも増してタチが悪い。無意識に菊池の方へ目をやると、奥の大田と目が合い、大田が「やれやれ」という目で微笑みを送ってくる。私も「お下品ですわね」という目で微笑み返す。
八人いる営業マンの中で独身なのは、唯一の二十 代である中村と、そして菊池の二人だけだ。大概の人は一目見ただけで、菊池の基本プロフィールが予想できるだろう。四十代、独身、彼女なし、成績不振の営業マン、全て正解。休みの日はパチスロ三昧、消費者金融にお世話になりすぎて足を向けて寝れない、住まいは外階段の付いたボロアパートで、部屋はコンビニ弁当やカップラーメンの容器が散乱し、万年床…ここら辺は真偽は定かでないものの、おおよそ正解だろう。ベトついた油っぽい肌に、ヨレヨレのスーツにシワのついたYシャツ、白髪混じりの伸びた髪の毛、そして夏場にはすれ違うたびに汗の匂いがキツく漂う。 女性社員が集まると、しばしば菊池の話題になり、まるで古今東西ゲームのように菊池の短所が並べられた。
一方で女子社員の憧れの的である大田から、突然食事に誘われたのは、ちょうど二ヶ月ほど前のことだった。会社に二人で残っていた時、話し上手な大田となんとなく雑談が盛り上がり、そのままの流れで二人で食事に行った。大田には学生時代からの付き合いという同い年の美人の奥さんがいて、娘が一人いる。長期休暇が明ける度に、大田は家族で行った海外旅行のお土産を配っていた。会社のエース営業マンで、女性社員の熱い視線を集める大田が、家族にとっても良い旦那さんであり、良いパパであることは容易に想像できた。そんな大田の誘いだったから、警戒しなかったのだが、初めて食事をした次の日には「昨日はすごく楽しかったから、もっとゆっくり話したい」と、食事の後に雰囲気の良いバーへ連れていかれて、「おや?」と思った。三回目に食事に行った時に酒に酔った勢いもあり関係を持ち、それから週に一度、食事をして酒を飲みホテルに行く仲になった。
関係を重ねるうちに、大田は私に家族の愚痴をこぼすようになった。奥さんが専業主婦なのに家事をしないとか、子供が出来た時に奥さんとの恋愛関係は終わったとか、娘がかわいかったのは言葉を覚え出すまでだったとか。私も大田へ憧れの気持ちを少なからず抱いていたが、どこかで聞いたような定番の愚痴をこぼす姿は、あまりに平凡なつまらない男に見えた。スマートでカッコ良い姿は幻想で、現実は妻との関係に不満を抱き、娘の扱いに苦悩し、寂しさと迷いを抱えたどこにでもいる中年の男だった。それでも、人気のある大田と二人だけの秘密を共有するのは、ちょっとした優越感と刺激を得ることができる。私は誘われるがままホイホイ大田と会った。
「お先に失礼しまーす」
パソコンに向かう大田と菊池に声を掛けて会社を出ると、コートのポケットの中のスマートフォンが震え、見ると大田からだった。
「俺も後十分で出る いつものとこで待ってて」
了解した旨を送り返し、いつも大田との待ち合わせ場所にしているドラッグストアに入る。十五分ほど店内をウロウロしていると、タクシーに乗った大田が駐車場に到着し、私も隣に乗り込む。
「今日はこの前のイタリアンで良い?」
大田は趣味の良いお店をたくさん知っていた。前にも二回一緒に行った郊外にあるイタリアンは、味も雰囲気も良く、私もお気に入りのお店だった。タクシーが会社の最寄り駅前を通り過ぎる時、くたびれたスーツで反対側の歩道を歩く男の姿が目に入った。
「あ、菊池さんだ」
同時に菊池に気づいたらしい大田が隣で言う。まるでその声が聞こえたかのように菊池の顔がこちらを向いた。一瞬、菊池と目が合ったような気がした。さすがに夜で、辺りは暗い。通り過ぎるタクシーの後部座席の顔までは見えていないだろう。そう思いながらも、ザワザワと心に細波が立つ。面倒なことになる前に、大田との関係は終わらせないといけないと改めて思った。
翌日、異変に気づいたのは、定時まで一時間ほどを残した頃だった。給湯室で客用の湯飲みを洗っていると、扉のない壁を隔てた向こう側、コピー機があるコーナーから女性社員二人の話し声が聞こえてきた。「大田さんが…、工藤さんも…、まさか…、でも子供も…」コピー機の音で話は途切れ途切れにしか聞こえなかったが、大田と私の名前は聞き間違いようがないほどハッキリと聞き取れた。その後すぐに一人が席に戻ったようで聞こえるのはコピー機の音だけになった。もしかして大田との関係が社内で噂になっている?背中に嫌な汗が流れる。思い返してみると、今日の朝から周囲の自分への声の掛け方や視線に、いつもと違うものがあったような気がしてくる。普段なら昼休みに食事が終わっても休憩室でダラダラとお菓子を食べて雑談をしている女性社員達が、今日に限ってそそくさと弁当を片付けて出ていってしまい、私だけが取り残されたのは、果たして偶然だろうか。
頭に浮かんだのは昨日タクシーから見た菊池の顔だった。菊池が誰かに話したのかもしれない。お腹のあたりがずんと重くなるのを感じるながら自席に戻る。帰り際に今週の営業会議の資料を営業に配っていた時、大田に渡す時にだけ部屋がやたらに静かになった。皆が私と大田のことを見ている気がして落ち着かなかった。この人もあの人も、陰で私と大田との関係を噂しているに違いない。菊池はというと、営業資料を渡す私に目もくれず、いつものように自席でブツブツと客に対する悪口を繰り返しながらパソコンを叩いていた。
社内での微妙な変化を、大田もすぐに察したようだった。その日から大田からの連絡の頻度が落ち、前のように甘えたメッセージを送ってみても、意味不明なスタンプを返されてモヤモヤするようなことが増えた。大田とは、数回二人で食事をして寝ただけなのだから、そこまで深い仲だったわけではない。それでも私のことを何度も「綺麗だ」と褒めてくれたこと、私の口癖を真似てふざける彼に、私も怒ったポーズをしては、戯れて笑い合ったこと、そんな甘い時間を思い出す度に、胸がチクリと痛んだ。
月曜日から金曜日まで、大田から避けられていること、同僚から陰でアレコレ噂さされていることを背中に痛いほど感じながら、会社に行き続けるのは苦痛だった。次第に夜は眠れなくなり、朝は起きられなくなり、週に二度も遅刻してしまった。二回目の遅刻で大事な仕事に穴を開けて後輩に迷惑をかけた。そして私は会社に退職願を出した。退職願を出した次の日に、退職日が決まり、有給日数を差し引いて最終出勤日が決まり、私はその日までただ黙々と日々の業務をこなした。
最終出勤日はあっという間にやってきた。業務は既に後輩へ引き継ぎが終わっていたため、一日デスク周りの整理をしたり、書類のシュレッターを掛けたり、わざわざ顔を出してくれる他部署の方に挨拶をしたりしながら、時間は過ぎていった。営業マンがポツポツと会社に戻ってき始めた夕方、大田からも声を掛けられた。
「工藤ちゃん今日で最後だね、お疲れ様。」
こうやって大田と向き合って話すのは数ヶ月ぶりだった。
「大田さん、いろいろお世話になりました。」
「こちらこそ。次の職場はもう決まってるの?」
「いえ、少しのんびりしてから考えようと思ってるんです。」
「そうか、工藤ちゃんはまだ若いし、しっかりしてるから大丈夫だよ。」
「ありがとうございます。」
私と大田の会話に周囲が耳を澄ませている気配を感じながら、私は必死で大田の目の奥を覗き込み、彼の本心を探ろうとした。しかし、塗り固めたような営業スマイルからは何の感情も感じ取ることが出来なかった。大田にとって私は何だったのか。何でもなかったのか。定時が近づき、他の社員とも改めて挨拶を交わすと、皆が私の退職を残念がり、優しい言葉を掛けてくれたが、退社の理由が「不倫が噂になり、気まずくなったから」なのは誰が見ても明らかで、その全てが白々しく思えた。
定時を過ぎ、部長と社長にも挨拶をしてから会社を出た。入社してからの数年間、毎日通ったこの道を、もう通ることはないのかと思うと、少しだけ寂しかった。
菊池は私が会社を出た時まだ営業先から帰っていなかったから、挨拶が出来なかったが、私が退職に追いやられた噂の発信源となった菊池を私は恨んでいたので、別にいいやという気持ちでいたのでが、その菊池と駅の入り口でバッタリ鉢合わせてしまった。私は一瞬気づかないフリをしようかとも思ったが、菊池が私を見つけて話しかけてきた。
「おー工藤さん、偶然偶然。ははは、今日最後だったよね?」
「はい、挨拶できてなかったので、お会いできて良かったです。長い間お世話になりました。」
「いやー大変だったね。お疲れ様。」
「大変だったね」という言葉が引っ掛かった。誰のせいでこんな大変な思いをしたのか、誰のせいで会社を辞める羽目になったのか。菊池が分かっていながら他人事のように「大変だ」と言っているのだとしたら悪質だ。私は既に退職した開放感からか、つい菊池に言っていた。
「あの、私、変な噂流されて、すごく迷惑でした。」
「え?」
菊池が素っ頓狂な声を出す。
「何の噂?」
「え?」
今度は私が素っ頓狂な声を返す。しらを切るつもりなのか?菊池の内心を探ろうと、じっと目を見つめる。本当に菊池は何も知らないのかもしれない。そうすると、噂はどこから広まったのか。いや、そもそも噂されていると思っていたのは私の勘違いだったのだろうか?大田が私から離れていったのは、社内で噂になったらではなく、ただ私に飽きただけだったのか?考えてみると、誰からも決定的なことを言われた訳ではないのだ。私は黙り込み、この数ヶ月を頭の中で振り返った。
「あ、立ち話も何だし、ちょっとコーヒーでも飲んでいこうよ。最後にご馳走させて。ここのコーヒーくっそまずいけどね、ははは。工藤さんにはお世話になったし、俺ももう仕事終わって暇だし。」
駅に直結したショッピングモールに入っている、チェーン店のコーヒーショップに菊池と入った。菊池とは会社でも業務上の会話しかほとんどしたことがない。そんな相手と小さなテーブルを挟んで向き合い座っている状況の不自然さよりも、私の頭の中は、新たに浮上した「何も起きてないのに、一人で勝手に悩んで、無駄に会社を辞めてしまった説」に占領されていた。そうだったとしても、もう手遅れではあるのだが、今ここで菊池と別れれば、その真相は永遠に知ることができないと思い、コーヒーショップへ付いてきたのだ。
「さっきの噂って、もしかして工藤さんと大田が付き合ってるとかってゆう、アレ?」
コーヒーを一口飲み込んだところで唐突に菊池が言う。やはり菊池は知っていた。私は黙って頷く。
「なんか勘違いしてるっぽいけど、俺は関係ねーよ。いつだったか、中村がT市のホテル街の近くで二人が歩いてるのを見たとか言ってたことがあって、みんな人違いだろって聞き流してたんだけど、そっか、そんなに噂になってたんだ…へえー。あれ?まさかそんなことで辞めるわけじゃないよね?」
中村か。大田と会う時は出来るだけ、場所を選んでいたつもりだったが、中村の実家は確かT市内だった。たまたまあの近くが地元で、たまたま見られていたとしても不思議じゃない。ただ、私達がT市に行ったのは一度だけで、大田との付き合いが始まったばかりの頃だ。私は一っヶ月以上も噂に気付いていなかったのか。
「いやーそれにしても工藤さんは長く営業補助で居てくれたから、寂しくなるなー。産休で休んだ後もすぐ復帰してくれて、仕事も結構正確だし、なんかポッチャリ癒し系って感じで、営業の奴らはみんな随分助かってたと思うよ。俺なんて、毎朝工藤さんの顔見て、今日も頑張ろうとか思ってたもん!なんつって。いやーでも残念だよ本当。」
会社で大田との噂が蔓延した後も、何も変わらず、私に裏表なく接してくれたのは、菊池だけだったのかもしれないと思った。皆が私と大田をチラチラと盗み見ながら噂話に花を咲かせている時も、菊池はいつだってブツブツと客の悪口を言いながらパソコンに向かっていた。そうか、常に考えていることが口からここぼれ落ちているのだから、裏表を使い分けるなんて菊池には出来そうもない。心の中で思っていることを上手に隠し、優しくて綺麗な言葉だけを掛けてくれる人達こそが怖いのだ。この数ヶ月ですっっかり人間不信に陥った私が、あの会社で唯一信頼しても良かったのが、この菊池だったのかもしれない。
「これで最後ってゆうのも寂しいからさ、今度二人で飲み行こうよ?連絡先教えて?」
「あの、私、結婚してるので、そうゆうのは…」
「ぶはははは!だよねー!だから思ったんだよ。工藤さんも結婚して子供生まれたばっかだし、大田も奥さんすげー美人だからさ、わざわざ工藤さんとってそんなわけねーだろって…、あ、いや、変な意味じゃなくてね!はははは」
コーヒーショップの前で菊池と別れた。菊池が最後に私に突きつけた言葉こそが、きっ真理なのだろう。私には夫と息子がいて、大田には綺麗な奥さんと娘がいて、大田にとって私は何でもなく、私にとっても大田は何でもなかったのだ。会社の方へ向かうヨレヨレのスーツの後ろ姿を見送りながら、「さ、うちに帰るか」と、つい独り言が洩れた。
怖い話『ずっと居た女』
これは私が実際に体験した話です。
私には物心がついた頃から大学生になるまで、約20年間、周囲に現れる不思議な女性がいました。
初めて不思議な体験をしたのは幼稚園の頃です。
週末は両親がいつもより遅く起き出しますが、私と姉は、朝6時から放送する好きなアニメを見るために、早起きするのが当時の習慣でした。その日は姉と2人で5時半ごろに起きてアニメが始まるのを待っていました。すると、急にラジオの電源が入り男性DJの声が流れ出しました。父がタイマーを設定したのかと思い、電源を消しましたが、消しても消しても自然にラジオが流れ出します。気味が悪くなり、何度も電源ボタンを押していると、はっきりとした女性の声で「オリバー」と私の名前を呼ぶ声が流れ、ラジオの音はピタッと止まりました。姉もこの時のことは良く覚えているため、聞き間違いではありません。
小学生の頃、学校の友達3人が私の家に遊びに来ました。私の家は、1階が車庫と倉庫になっており、2階にリビング・ダイニング・和室、3階に家族それぞれの寝室があります。その日は1階の倉庫を真っ暗にして、隠れんぼをして遊んでいました。友達の1人が外で数を数えている間、私は友達1人と古いテーブルの下に隠れていました。すると、倉庫の反対側から、もう1人の友達が誰かに話している声が聞こえました。「もうちょっとそっちに行ってよ!」誰と話しているんだろうと不思議に思い、隠れんぼを中断して電気を付けると、友達は「隣に誰かいてBちゃん(私と一緒に隠れていた友達)かと思った。髪が長かったから。」と青い顔をしていました。
ある時は、3階の自室から、2階に降りた時に、和室に髪の長い女性が立っているのが見えて、姉がいるのかと思いそのまま通り過ぎると、台所で母と姉が一緒にいました。戻って和室を確認すると誰もいませんし、錯覚で人に見えるような物もそこにはありません。「和室に誰かいたように見えた」と母と姉に話すと、姉も2階に降りた時に同じく人がいるのを見て、そのことを母に話していたと言っていました。
中高生の頃は、このようにふとした時に自宅で女性の影を見たり、夜寝ている時に、2階から足音が階段を登ってくるのが聞こえ、部屋のドアの前で立ち止まるようなことが頻繁にありました。
一番ゾッとしたのは、お風呂で髪を洗っている時、頭の上に自分の手ではないもう一本の手が触れた感覚があり、驚いて目を開けると、鏡に写る自分の背後に、髪の長い白い服を着た女性が立っているのが見えました。一瞬だったので見えたのは女性の腰から下だけで、顔は見ていません。すぐに目を閉じてシャンプーを洗い流し、意を決してもう一度目を開けるとそこには誰もいませんでした。
そして私は大学生になり、ニュージーランドに語学留学をしました。ニュージーランドでも不思議なことが続きました。
友達数名で登山をし、帰りのバスの中で友達が撮った写真を見ていたところ、急に友達が悲鳴を上げました。見てみると、写真に写る私のお腹のあたりに、どう見ても一緒にいた友達ではなく、髪の長い女性が写っているのです。テレビなどで見る心霊写真そのものでした。そして女性の顔は、よく心霊映画に出てくる典型的なお化けのようで、青白く表情のない顔をしていたのを覚えています。友達が怖くなってその場で写真を消してしまったので写真はもう残っていません。
ニュージーランドでは留学生10名ほどが暮らす寮のようなところに住んでいたのですが、ある日の朝方、私が寝ていると、部屋の前で女性が泣き叫ぶ声がして目が覚めました。「どうして!私がなんでこんな目に合わないといけないの!」というような自分自身の境遇を憂うような叫び言葉が聞こえます。寮で暮らす誰かがお酒に酔って叫んでいるのかなと思いましたが、良く考えてみると、その寮に日本人は私1人。他に日本語を話す人はいないことに気づきました。僕の部屋の前で泣き叫ぶ声は30分ほど続いて、急にピタッと止まりました。
1年間の留学を終えて、日本に戻ると、パタっと不思議な事は起こらなくなりました。あれから10年以上、一度もこの女性を見たり、気配を感じたことはありません。ニュージーランドがよほど気に入ったのかなと、家族や友達と笑い話にしていますが、20年間ずっと側に感じ続けた存在が急にいなくなって、なんだか寂しいような気もします。急に現れて驚いたり、怖くなることはありましたが、彼女が私や誰かに危害を加えたことは一度もなく、私や家族は本当に幸せに暮らしてきたのですから、彼女はきっと悪霊なんかではなく、守護霊のようなものだったのかもしれないと、私はそう思っています。